村松志保子・・・・・活躍


孫・薄田和子女史により 明らかにされた志保子の人生一部が判明しました。

谷中・天王寺に眠る墓誌。

 

 村松志保子 墓誌碑(漢文訳)

 

国勢院正四位勲二等小川平吉題額

 

 

村松志保子、父は玄庵、沼田藩御典医、母は和歌子、

 

沼田藩々老、中村官兵衛長女、志保子は師も驚く頭の良い子であった。結婚するも離婚し自立する。

産婆の仕事の重要性を感じ医師から助産の道へ、明治十五年安生堂医院を起こし名声広まる。

明治二十一年産婆学校を起こす。

明治二十五年安生堂産院特別収容施設開設、慈善的施設です。

明治二十四年北白川宮 小松宮両妃殿下 露皇帝ニコラス二世から援助を受けます。

東京産婆会本部幹事 第十六支部長を兼任。睡眠三時間一生懸命研究仕事しました。

解らないことは無いという程、礼儀作法、書 画、和歌、琴、茶華道に秀れておりました。

父は八十才没、志保子は大正十一年一月二十六日 六十九才没 母が辞世の銘を書きました。

佳域鬱々 既固具安 積善流徳 宣乎子孫

 大正十一年四月 鈴木於兎之助 選 安本孝和書 廣群鶴