村松志保子・・・・・花華一族


プレート 碑より (実物は タテ 書きです)

 

 

沼田藩 藩主 土岐頼知別邸 (明治維新以降~)

沼田藩、最後の藩主 土岐頼知は、明治二年藩籍奉還により沼田藩

知事、明治四年廃藩置県により沼田県知事、後 明治十七年、華族令

にて、「子爵」を賜る。明治維新後、代替地としてこの横網に 約二千

坪余の敷地を所有する。頼知の妹の教育、一族の病気看護のお礼に、

半分の土地を志保子に上げる。同地に志保子が、医院次いで学校

及び特別施療室を開設する。

 

八杉利雄 一等軍医正 (一八四七年~一八八三年)

明治二年津和野藩、養老館から、貢進生として大学東校(東寮生)

(現、東大医学部)に留学。校長 佐藤尚中、教授試補 長谷川泰、

東寮長、石黒忠悳、大教授、松山棟庵(棟庵はシーボルトの弟子で

利雄の英語教師)。明治五年オースチン・フリントのリウマチ論を、

翻訳する。明治六年文部省へ出仕。明治七年 陸軍二等軍医正、

右示指裂傷治験論文発表。初代軍医総監、松本順と会う。土岐別邸

で、華麗な催事、歌会等で、志保子の妹 春子を知り婚姻する。

結婚後は別邸内に居住。 明治十一年大阪陸軍臨時病院にて軍医監

  佐藤進、一等軍医正、石黒忠悳と同職場。明治十四年東京陸軍

病院治療課長部下に森鴎外がいた。 明治十五年東亜医学校 設立

に貢献。 明治十六年熊本鎮台陸軍病院長となる。明治二年上京後

日本の医学界重鎮の人々と密接な関係が出来る。同年会議で上京,

脳溢血にて急死。若すぎる死でした。 享年三十七歳。

 

八杉 貞利 露語研究の慈父 (一八七六~一九六六)

父、八杉利雄、母、春子(村松志保子、妹 )横網で誕生。帝国

大学文科大時代、和歌壇で活躍 後、上田万年博士の指示で東京外

国語学校露語科に学び文部省より露語研究留学を命ぜられる。後

東京外語学校大学教授・東京帝国大学・早稲田大学で教鞭をとり、

老若師弟に慈父と慕われ、露語学者、ソヴィエト研究者の座右の

書「岩波露和辞典」は、八万一六〇〇部発行される。生後十日で

母、七歳で父を亡くし父の親友、石黒忠悳を後見人として育つ。

近年伯母 志保子、伯父山田寅次郎の年譜不詳一部が、貞利の日

記で判明、関東大震災の記、ロシア紀行他、貴重な資料である。




山田寅次郎 (一八六六~一九五七

志保子の母、和歌子と寅次郎の父、莞爾は姉、弟です。寅次郎、 志保子従姉弟の二人は生涯仲良く、寅次郎の祖父 中村官兵衛(幽軒と改名)は、晩年この横網 和歌子の元で暮らす。明治歌集に歌の詠みあり。沼田藩 元家老としての威厳で、

志保子を見守る。寅次郎は志保子の安生堂のため薬学校で学ぶ。その後、志保子の慈愛精神は、寅次郎にも影響される。

トルコ民間大使として多大な貢献をしその後茶道 宗徧流八世家元 山田宗有として活躍する。昭和五十三年四月 東京歌舞伎座で流祖宗徧が「茶道忠臣蔵・山田宗徧」として上演され、八世家元の寅次郎と流祖、二人

「ゆかりの人」です。              

                               平成十七年三月八日               



墨田区横網。1千余坪の中に、産婆学校、淑女館、安生堂医院。慈善(無料)妊婦収容所が、ありました。