村松志保子助産師顕彰会

村松志保子助産師顕彰会2019年7月20日 表彰式

令和元年度 第23回 村松志保子賞等表彰式が墨田区役所1階リバーサイドホールミニシアターにて開催されました。
式典案内書のご紹介です。



村松志保子助産師顕彰会
令和元年度 第23回村松志保子賞等表彰式
加藤尚美会長挨拶


記念講演1:山本詩子様(山本助産院院長、公益社団法人日本助産師会前会長)
テーマ「日本助産師会の世田谷産後ケアセンター発足への想い」


記念講演:2:谷口初美様(九州大学大学院医学研究院 保健学部看護学分野教授)
テーマ「モンゴル助産師会とのツイン・プロジェクトについて」



令和元年度 第23回 村松志保子賞等表彰式 墨田区役所1階リバーサイドホールミニシアターにて


詳細 問い合わせ先

192-0914 東京都八王子市片倉町11815

電話      042-635-3668

FAX     042-635-7117

メール     otafuku-o@nifty.com   

 

村松志保子助産師顕彰会最近のご案内

母子と助産師の碑」の除幕式



 村松志保子助産師顕彰会発足記念 に 建立された 初めての碑  「感謝の碑」

助産師教育発祥の地プレート碑

 

  

感謝      村松志保子先生

博愛の精神と 慈愛に満ちた福祉の心で後世に偉大な教えと 功績を遺した事を記念として。

 村松志保子助産師顕彰会一同      2005年1月26日

 

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村松志保子助産師顕彰会一同によって建立のプレート碑

プレート碑 設置交渉協力者  磯崎芳廣氏

   





上段:村松志保子の自立的・博愛的近代助産師活動と助産師教育発祥の地プレート碑

下段:村松志保子に関係深い人々のプレート碑
沼田藩 藩主  土岐頼知別邸      八杉利雄   一等軍医正

八杉貞利   露語研究の慈父      山田寅次朗  トルコ民間大使、宗?流八世家元

 

建立地   (JR及び・都営地下鉄より徒歩7分

ろうけん隅田秋光園   TEL03-5610-1235  FAX03-5610-1270
130-0015   墨田区横網2-7-13

上段の碑文
      村松志保子の自立的・博愛的 近代助産師活動と  助産師教育発祥の地

 明治時代に女医から産婆(助産師)になり、明治・大正時代に  博愛精神に基づき、助産活動をした先駆的助産師

村松志保子は、 安政三年(一八五六)生~大正十一年(一九二二)没

  明治十四年、この地に安生堂医院を開設、更に女性の地位向上の  ため、明治十五年、淑女館 と 安生堂産婆学校 を設立し 新しい  教養豊かな産婆(助産師)がこの地で育成された。 志保子の博愛精神は、貧富の分け隔てなく当時の多くの母子を  助け、その活動は、大正十二年九月一日の関東大震災まで、続け られた。 ここに、「志保子の崇高な精神」 「高邁な志」に基づく活動を 末永く称えると共に、助産師自らが設立した助産師教育と博愛的 助産師活動発祥の地に、将来にわたり全世界の全ての母子とその 家族の 健康と幸福 を願い、更に 世界平和 の実現への助産師の 祈りの発信基地となることを記念して。     村松志保子助産師顕彰会建立   

 平成十七年三月八日

下段の碑文
        横網二丁目 ろうけん隅田「秋光園」 の地 ゆかりの人々        

沼田藩 藩主 土岐頼知別邸 (明治維新以降~)    

沼田藩、最後の藩主 土岐頼知は、明治二年藩籍奉還により沼田藩 知事、明治四年廃藩置県により沼田県知事、後 明治十七年、華族令 にて、「子爵」を賜る。明治維新後、代替地としてこの横網に 約二千坪余の敷地を所有する。頼知の妹の教育、一族の病気看護のお礼に、 約 半分の土地を志保子に上げる。

同地に志保子が、医院次いで学校 及び特別施療室を開設する。

八杉利雄 一等軍医正 (一八四七年~一八八三年)

明治二年津和野藩、養老館から、貢進生として大学東校(東寮生)(現、東大医学部)に留学。校長 佐藤尚中、教授試補   長谷川泰、 東寮長、石黒忠悳、大教授、松山棟庵(棟庵はシーボルトの弟子で利雄の英語教師)。明治五年オースチン・フリントのリウマチ論を、翻訳する。 明治六年文部省へ出出仕。明治七年陸軍二等軍医正、右示指裂傷治験論文発表。初代軍医総監、松本順と会う。土岐別邸で、華麗な催事、歌会等で、志保子の妹 春子を知り婚姻する。 結婚後は別邸内に居住。 明治十一年大阪陸軍臨時病院にて軍医監 佐藤進、一等軍医正、石黒忠悳と同職場。明治十四年東京陸軍病院治療課長部下に森鴎外がいた。 明治十五年東亜医学校 設立に貢献。 明治十六年熊本鎮台陸軍病院長となる。明治二年上京後 日本の医学界重鎮の人々と密接な関係が出来る。同年会議で上京,脳溢血にて急死。若すぎる死でした。 享年三十七歳。

八杉 貞利 露語研究の慈父 (一八七六~一九六六)父、八杉利雄、母、春子(村松志保子、妹 )横網で誕生。

帝国大学文科大時代、和歌壇で活躍 後、上田万年博士の指示で東京外国語学校露語科に学び文部省より露語研究留学を命ぜられる。後、東京外語学校大学教授・東京帝国大学・早稲田大学で教鞭をとり、老若師弟に 慈父と慕われ、露語学者、

ソヴィエト研究者の座右の書「岩波露和辞典」は、八万一六〇〇部発行される。生後十日で母、七歳で父を亡くし父の親友、石黒忠悳を後見人として育つ。近年伯母 志保子、伯父山田寅次郎の年譜不詳一部が、貞利の日記で判明、関東大震災の記、ロシア紀行他、貴重な資料である。

山田寅次郎 (一八六六~一九五七)

志保子の母、和歌子と寅次郎の父、莞爾は姉、弟です。寅次郎、 志保子従姉弟の二人は生涯仲良く、寅次郎の祖父 中村官兵衛(幽軒と改名)は、晩年この横網 和歌子の元で暮らす。明治歌集に歌の詠みあり。沼田藩 元家老としての威厳で、

志保子を見守る。寅次郎は志保子の安生堂のため薬学校で学ぶ。その後、志保子の慈愛精神は、寅次郎にも影響される。

トルコ民間大使として多大な貢献をしその後茶道 宗?流八世家元 山田宗有として活躍する。昭和五十三年四月 東京歌舞伎座で流祖宗?が「茶道忠臣蔵・山田宗?」として上演され、八世家元の寅次郎と流祖、二人

「ゆかりの人」です。              

                                           平成十七年三月八日